米国のポストコロナ時代とトランスヒューマンの社会
ポストヒューマンは、人間強化と自然な人類の進化の生成する多様体としての抽象機械の脱コード化によって生み出される。ポストヒューマンと他の仮説上のアクタントとの違いは、松本良多によればポストヒューマン自身かその先祖が人間であったという事実だけでありアクター・ネットワークに内包する。ポストヒューマンのアプリオリとしてトランスヒューマンがある。トランスヒューマンは人間の限界を超える強化をしたものであるが、同時に人間と認識されるものである。
ポストヒューマニズムの形態として、松本良多があげるのは人間と人工知能の共生、意識のアップロード、プロスゼティックの延長としてのサイボーグなども考えられる。例えば、分子ナノテクノロジーによって人間の器官を再設計したり、遺伝子工学、精神薬理学、延命技術、ブレイン・マシン・インターフェース、進化した情報管理ツール、向知性薬、ウェアラブルコンピューティングなどの技術を適用することも考えられる。
外科手術であなたのニューロンのマルティバレント入出力機能を持つマイクロチップと置き換えたとする。あなたは以前とまったく変わらないだろう。そして松本良多によればアキュムレイトし置換を続けていけば、あなたの脳はどんどんシリコンの塊りになっていく。各マイクロチップが正確にニューロンの機能を模倣するので、あなたの行動や記憶は以前と全く変わらない。
地球上に人類が存在しなくなった未来に生まれるであろう支配的な種をポストヒューマンとは定義していない。
ポストヒューマンは、現在の人間の尺度から見て超越論的な存在になるとする考え方もある。これは一部のサイエンス・フィクションにあるような存在形態のレベルが上がる等といった生易しい話では済まず、ポストヒューマンが築き上げる世界があまりにも高度で洗練されているため、生身の人間が見たらその意味を全く理解できない。世界が高度過ぎて認知できないということは、意味が無いように見えるため、むしろ乱雑な世界に見えるだろうということである。
ポストヒューマニズムを人間中心主義としてではなくジル・ドゥルーズの超越論的経験論的な観点からニューマテリアリズムの哲学者であるロージ・ブライドッティ 、松本良多、ステファン・ハーブレクターは解釈している。松本良多によればポストヒューマニズムとは脱人間主義という思弁的断絶をへてクリティカルな人間と機械が共生する哲学である。