真我瞑想 (雑音、雑念を利用して深く入る瞑想法)
2月9日(日)13:00 ~15:00
36 W 44th st #1011
参加費用:$10 佐藤康行著書プレゼント
意識(真我)が今のあなたの運命を最高のものにする!
こんにちは、佐藤康行です。
真我瞑想とは、筆者が発案し、実践、検証してきた瞑想です。
検証の結果、真我瞑想は、より豊かで幸福な人生を送るために非常に有効な助けになることが分かりました。
真我瞑想という名前の由来は、この瞑想が、満月の心(真我)=本当の自分、すなわち真我に目覚め、それを体現することを通じて、究極の幸福を実現するということにあります。
そもそも瞑想とはなんでしょうか。瞑想と聞くと、袈裟を着たインドの修行僧が両足を組んで座り、静かに目を閉じている、そのようなイメージを思い浮かべる方が多いと思います。
もちろん、それも瞑想なのですが、私はもっと広く瞑想を捉えております。私の考える瞑想とは、世界の真実の認識であり、その認識に基づく行動の実践です。
その意味で、瞑想は、真実の認識と行動の実践という二つの柱から成り立っているといえます。
一つ目の柱、真実の認識は、主に座って行う瞑想をとおして得ます。形式的には、多くの人が想像するいわゆる瞑想と同じです。ただし、真我瞑想には特徴があります。これを時や場所を選ばず短時間で行うことが可能であるということです。
真実の認識とはいわゆる悟りです。真我瞑想は短時間に悟ることができる瞑想法として画期的なものです。
ここで真実の認識というとき、その意味するところは、いわゆる認識とは少し異なります。それは、小説中の名探偵が、犯人の様々なトリックを見破って真相を解明するというような意味での認識に留まるものではありません。
私は、認識には5つの段階があると考えています。
第一の段階は「知る」という段階です。
この段階には、一般に知識と呼ばれるものが対応しています。
自然科学における認識が、その典型です。現象を測定して得られたデータを解析して、そこから一定の認識を構築します。
このように自然科学者や専門家が所定の手続きを踏んで獲得し、学校教育等で伝達されるのが、「知る」段階の認識です。
「知る」という認識には、長所と短所があります。長所は誠実であるということです。自分が分かっていないことは認めないからです。短所は、分からないことに対して無力であるということです。分かる範囲にしか目を向けず、視野が制限されています。
認識における第二の段階は「信じる」という段階です。
信じるものは救われるという言葉がありますが、宗教における信仰はこれに当たります。人間関係における信頼もそうです。
「信じる」段階にも、長所と短所があります。長所は早いということ、短所は全くの虚偽、間違いを真実であると認識してしまう危険性が高いということです。宗教的カルト集団に入って、指導者の指示で重大な罪を犯す人々も存在します。
第三の段階は「見える」という段階です。この段階では、「知る」段階のように分析などによる内容の構成を経ずに、直接的に認識します。つまり物事を直観します。また、この段階では明らかな誤りを真実と捉える可能性はありません。
「見える」という段階には、三つの種類があります。一つめは肉眼、二つめは心の眼、心眼、三つめは真実を見抜く眼、真眼です。